川崎学園 創立50周年記念誌
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13川﨑祐宣創設者学園の礎づくり手術中の祐宣院長 1931(昭和6)年岡山医科大学を卒業後、第二外科学教室(通称「津田外科」)入局、岡山市立市民病院外科医長を経て、1938(昭和13)年、岡山市富田町に夜間診療所外科昭和医院を開業、翌年、岡山市西中山下に外科川﨑病院を開院した。外科川﨑病院は1945(昭和20)年6月に空襲により全焼したが、8月には診療を再開。翌1946(昭和21)年には建物を再建し、戦災に遭った多くの市民に対し、昼夜を問わず医療の提供を行った。 その後、病院での収益をより多くの患者に還元するため、私財の土地・建物その他病院設備一切を寄付して、1950(昭和25)年、財団法人川崎病院を設立した。  1957(昭和32)年、川崎病院は救急病院の指定を受け、1966(昭和41)年には、救急災害センターを併設した。また、1958(昭和33)年、川崎准看護婦養成所(後の川崎看護専門学校)を開設し、医療人の養成を始めた。1960(昭和35)年には、臨床研修病院に指定された。 1960(昭和35)年、9階建ての西館が完成。500床を持つ総合病院川崎病院が開院した。その中には川崎癌研究所を開設し、医学研究にも力を注いだ。昼夜を問わず診療に明け暮れる中、自らも研究活動に励み、1961(昭和36)年、がんの研究をテーマに医学博士の学位を取得した。総合病院となった川崎病院は、「病院は患者のためにある」「24時間365日昼夜診療」をモットーに、地域の基幹病院としての役割を担った。 1966(昭和41)年には東館・北館が竣工。800床の病院として全国有数の大規模総合病院に発展した。昭和医院から川崎病院、そして総合病院へ川崎病院(西館が完成した頃) 代々小学校長や村長を務めていた川﨑家の長男として生まれた祐宣は、家督を継ぐものとして、厳格な折り目正しい家庭教育を受けるとともに、愛情と期待を一身に集めながら育った。 祐宣が医師の道を選んだのは、第七高等学校造士館時代のことだった。それまで全く別の道を歩もうとしていた祐宣の気持ちを変えたのは、伯父(母の兄)の永田安愛氏の存在だった。 永田氏は、大正から昭和にかけ、隣の牧園村でただ一人の医師として開業していた。自慢の甥である祐宣を特別にかわいがっており、祐宣もこの伯父を慕い、造士館時代の夏季休暇には永田家に逗留するのが常だった。 逗留のたび祐宣は、永田氏が語る医学の話に強い興味を持ち、耳を傾けた。また、永田氏が仕事に専念し、夜中でも急病人と聞けば馬や自転車で駆け付ける姿に感銘を受け、やがて医師を志す決意を固めていった。 人生を変えた出会いcolumn‒1伯父 永田安愛氏医師免許証(1931年4月)

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