川崎学園 創立50周年記念誌
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14 祐宣には、日々の診療の中で心身に障がいを持った子どもたちを見て、やむにやまれぬ思いで、医師でなければできない医療福祉施設開設を思い立った。1957(昭和32)年に設立された財団法人旭川荘(1959年 社会福祉法人旭川荘に移行)だ。発足当時は、肢体不自由児施設「旭川療育園」、知的障害児施設「旭川学園」、乳児施設「旭川乳児院」の3施設が開設された。祐宣は、これを「3粒の種まき」と表現して、将来の発展に期待を込めた。 やがて旭川荘には、重症心身障害児施設「旭川児童院」をはじめ多くの施設が開設され、総合医療福祉施設として整備された。この医療福祉という概念・構想は、のちの川崎医療福祉大学の設立へと結実していった。病院長は病院に住むべきcolumn‒3 川崎学園のすべての医療機関は、「病院は患者のためにある」「24時間365日昼夜診療」をモットーとしているが、祐宣は、1939(昭和14)年、中山下に開院した「外科川﨑病院」時代からそれを実践している。開院当時、医師は祐宣一人。そのため病院内に居住スペースを設け、そこに住みながら診療を行っていた。 この姿勢は、その後の川崎病院でも貫かれ、1973(昭和48)年の院長退任まで、家族とともに、自宅ではなく病院に住み続けて信念を貫いた。 附属病院建設にあたっても、病院長の居住スペースが設けられた。祐宣は実際そこに居住することはなかったが、「ゲストルーム」として来客の接待や学生との交流に活用された。川崎病院を日本のメイヨークリニックにcolumn‒2 1954(昭和29)年10月、祐宣は最先端の医療現場を見知するため、欧米の病院を半年にわたり視察した。 アメリカでは、高度の医療と、各地の医科大学の卒業生を受け入れて卒後教育を行うことで有名だった総合病院メイヨークリニックを視察した。ここで総合病院の経営方法と外科手術の実際をつぶさに見学した。アメリカの医学の進歩を痛感した祐宣は、川崎病院を日本のメイヨークリニックにするために尽力する決心をした。そして、メイヨークリニックで学んだものが、帰国後の総合病院の基本になった。医療と福祉を統合した社会福祉法人旭川荘開設当時の旭川荘昭和天皇、皇后両陛下のご訪問視察中の祐宣院長学生たちと語らう(学園内ゲストルーム)

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