川崎学園 創立50周年記念誌
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15 川崎病院が大規模な総合病院となった頃の日本は、最も深刻な医師不足に直面していた。川崎病院でも、医師不足のため病院の実力を十分に発揮することができなかった。 また、知識の伝達のみで全人的な配慮がなされていなかった従来の医学教育の弊害から医の倫理が低下し、当時は社会的な批判を受ける医師が多かった。川崎病院に勤務する医師の一部にも、「病院は患者のためにある」という病院の理念を共有することができない医師が少なからずいた。 さらに、1965(昭和40)年頃から全国各地に蔓延していた大学紛争が、教育現場を荒廃させていた。このような状況の中、祐宣は医科大学を創設し、患者のために尽くす有能で人間的に優れた医師を自らの手で養成しようと考え始めた。遺志を継いでcolumn‒4 医科大学の建設地が倉敷市松島になったのは、岡山県からの打診によるものだった。というのも、祐宣の盟友であった三木行治岡山県知事は歯科大学創設の敷地として松島の東西二つの丘陵地を買収していたのだが、計画が実現しないまま、1964(昭和39)年に川崎病院で逝去した。そのため、故三木知事の遺志を継ぎ、松島の地に大学を創設してくれる人物を県が探していたのだった。 祐宣は岡山県医師会幹部からの強力な促しと全面的な協力の約束もあり、松島の地に医科大学を設立する決断をした。良医の育成を目指して松島の地に理想の医科大学を 「医科大学を一つ設置し、毎年、医師となるべき有為の卒業生100名を輩出することは、大病院を10〜20開設するよりはるかに有益だろう」との強い思いから、1968(昭和43)年、財団法人「学校法人川崎学園」設立準備期成会を設置し準備に取り掛かった。 戦後初の私立医科大学の設置ということもあり、認可は難航したが、1970(昭和45)年3月、ようやく学校法人川崎学園の設立が認可された。祐宣は理事長に就任。同年4月、戦後初の私立医科大学として、岡山県都窪郡庄村松島(現 倉敷市松島)に川崎医科大学が開学した。 医科大学では、進学課程と専門課程との隔壁を取り払った6年間の一貫教育が行われた。そして全国から集められた著名な教員による小グループでのきめ細かい教育が実施された。また基礎医学と臨床医学の統合を図り、あらゆる科目において実験・実習に重点をおくという、既存の医学部には無い画期的な教育方針で、よき臨床医の育成を目指した。 「人の役に立つ医者になれ」「医者は医者である前に人間である」「人間の道がきちっとした医者でないといかん」、祐宣は学生たちに常にこう語っていた。2月末にでき上がっていた大学要覧の大学紹介の中に、祐宣の年来の理想が「人ひ間とをつくる 体をつくる 医学をきわめる」との、分かりやすく簡明な形で表現された。これが後に、川崎学園の建学の理念として、学園傘下のすべての教育施設に通じるものとなった。医科大学の構想を練る川崎医科大学建設前の敷地の遠景ユニフォーム姿で三木岡山県知事と川﨑祐宣創設者学園の礎づくり

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