川崎学園 創立50周年記念誌
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18 1973(昭和48)年には、川崎医科大学附属病院が開院した。医科大学設置のための総合病院としては川崎病院がその基準を満たしており、新たに附属病院を創設するには及ばなかったが、医科大学と同じ場所に理想的な附属病院をつくることは、新しい医学教育にとって不可欠であり、医科大学を中心とした一大メディカルセンター創設という、年来の夢の実現だった。 祐宣は初代院長として自ら病院長となり、「医療は患者のためにある」「24時間いつでも診療」を診療方針に患者の権利・意見を尊重し、高度先進的な医療への積極的な取り組みで信頼される医療の提供を目指した。 1979(昭和54)年の救命救急センター開設により、年中無休24時間体制が実現。また、1981(昭和56)年には総合診療部を開設し、患者のための病院を体現した。教育・研究病院、医科大学附属病院の誕生中国との国際交流 祐宣は、日中国交正常化以前から中華医学会と交流を深めていたが、1978(昭和53)年、中華医学会上海分会代表団が来訪。翌年に祐宣を団長とした学園の学術友好訪中団15名が訪中して以来、交流が活発に行われるようになり、中国医学界や医療関係機関との順調な交流を展開していった。 その背景には、長きにわたり、計り知れない文化的恩恵を受けてきた中国に、医学を通じて手をさしのべ、中国医学の現代化へ役立ててもらいたいとの思いがあった。小さな努力が日中友好の一助になり、日中両国民の末長い幸せにつながることになると祐宣は考えていた。毛沢東と面会column‒7 1955(昭和30)年、訪日中国学術文化代表団が来日。その半年後、代表団団長の郭沫若氏から岡山の後楽園に2羽の鶴が贈られた。それをきっかけに翌1956(昭和31)年、岡山県訪中文化視察団が中国を訪問。副団長として参加した祐宣は、毛沢東主席、周恩来首相に接見し、中国医学会に果たす自らの使命を自覚した。 祐宣は、患者さんから信頼されるためには、きちんとした身だしなみと優しく丁寧な言葉遣いが不可欠と、学生・研修医に指導していた。そして職員にも、言葉遣いとともに仕事中は清潔なユニフォームをきちんと着用することを常に呼びかけていた。自身も、真夏でもネクタイをしめ上着を着用するなど、いつもきちんとした身だしなみと、患者さんへの丁寧な接し方を心がけていた。また、美しい病院を保つため、「病院内は土足厳禁」を徹底。患者や外来者には病院玄関の「下足室」で院内用スリッパに履き替えてもらい、職員は職員用の玄関に設けられた「すのこ」とカーペットの土足厳禁ゾーンで上履きに履き替えてから院内に入っていた。土足厳禁ゾーンに土足で上がっている職員を見かけると、祐宣は自ら注意することもあった。今は病院玄関の「下足室」はなくなったが、職員は今でも上履きの着用が義務付けられている。ユニフォームと上履きcolumn‒6 附属病院は、患者本位の診療を行うと同時に、教育・研究病院としての使命も持ち、実地に強い医師を育てたいとの思いから、充実した臨床実習も行った。また医学生だけでなく、コ・メディカルスタッフの養成の場でもあった。医科大学、医療短期大学ともに教員が病院スタッフと兼務していたため、実践的で行き届いた指導が行われた。附属病院開院当時(1973年10月)毛沢東国家主席に接見

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