川崎学園 創立50周年記念誌
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21学校法人川崎学園設立 ―副理事長として祐宣を補佐― 明德は、岡山大学医学部第二外科学教室に在籍中の1962(昭和37)年から、財団法人川崎病院(のち財団法人川崎医学振興財団)理事となった。 1965(昭和40)年頃、父祐宣から医科大学開設の話を聞かされ、1968(昭和43)年設置の財団法人「学校法人川崎学園」設立準備期成会に参加。父祐宣とともに設立認可に向けて、関係各省庁や地元自治体との数々の交渉に臨んだ。特に、文部省(現 文部科学省)との折衝は長期にわたり困難を極めた。私立医科大学の設置は戦後例がないというだけでなく、伝統のある医学部を持つ大学がすでに存在する県に、新たに医科大学を設置することに対するハードルはきわめて高く、陳情や折衝のための上京は70回以上に及んだ。申請日ぎりぎりには、膨大な量の書類を風呂敷に包んで夜行列車で上京し文部省に持ち込んだ。ついに設立認可を得ることができたのは、交渉にあたった明德の調整能力と粘り強さによるところが大きい。 1970(昭和45)年3月、学校法人川崎学園設立認可。4月、川﨑明德二代目理事長(現 学園長)夢の実現へ川崎医科大学開学。明德は川崎学園副理事長に就任し、さらに、1971(昭和46)年、川崎医科大学副学長に就任。校舎や病院の建築など施設整備、財務・経理事務担当、金融機関との折衝などを担った。明德は川崎学園の運営と草創期の学校法人の実務責任者として、煩雑な業務と山積する諸問題を昼夜の区別なく短期間で黙々と処理・解決、川崎学園の発展に大きく寄与した。 医科大学と同時に川崎医科大学附属高等学校が開学した。受験勉強中心の高等学校教育に一石を投じ、良き医師になるにふさわしい知性と人間性を早い段階から育むため、1学年定員50名で開学。全国で唯一の全寮制医科大学附属高等学校として注目された。 1973(昭和48)年には、チーム医療の担い手となるコ・メディカルスタッフ養成を目的に川崎医療短期大学が開学し、川崎医科大学附属病院が開院した。さらに翌年、川崎リハビリテーション学院が開校し、医学教育と医療、コ・メディカルの一体的な教育体制が整った。附属病院竣工の頃川崎学園を南側から望む(1973年頃)医科大学建設現場を視察する明德(現在のふるさとの森あたり)

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