川崎学園 創立50周年記念誌
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22 川崎医科大学には目指す医師の育成のため、1974(昭和49)年開設の「リハビリテーション医学教室」、一次救急から三次救急まで幅広い対応ができる医師養成のための「救急医学教室」を1977(昭和52)年に、また、1980(昭和55)年には、全人的医療が行える医師の育成を目指す全国初となる「総合臨床医学教室」などが順次開設されていった。 また、先進的なカリキュラムを開発し実践したが、そのカリキュラム編成にも明德は携わった。当時、30代半ばの若さながらも、温厚篤実で情に厚く、配慮の行き届いた言動の明德は、個性的な創設期の学長たちや教授陣とも上手に向き合い、父祐宣を補佐しながら、医科大学の組織づくりと体制づくりを行った。 明德が関わった学園独自の制度は数多い。その一例に、川崎医科大学および大学院の主要な研究施設として機能別に設置した「研究センター」(現在の中央研究センター 研究ユニット)がある。海外視察で見た施設を参考にしたもので、設備機器、技術員を中央に集中配備し、さらに、医学生物学の研究に欠かせない研究用実験動物を集中飼育管理。一般的には教室ごとに設けられる研究機能を中央に集約することで、経費の重複を省くとともに、円滑な研究業務を可能にした。 「中央教員秘書室」も明德が設立に関わった部署の一つ。教室ごとに秘書を配置するのではなく秘書室全体で協働して全教員の秘書業務を行う、おそらく日本で初の部署の誕生だった。校正、ワープロ、英文タイプなど、職員それぞれの特技・能力を生かしながら、教員の情報やスケジュールを部署全体で共有して対応するため、従来の教室制度下での個人秘書に比べ、大きなメリットが生まれた。才能あふれる温厚な若きサブリーダー医科大学教授会(開学の頃)学生とのひとときを楽しむ明德 1973(昭和48)年に開院した川崎医科大学附属病院は、設計の段階から医師、事務職員、看護師など病院のスタッフが関わり、それぞれの場所が実務的に使い勝手よく設計されている。 「病院は医学教育の病院セクション」との明德の考えから、附属病院と同じ建物内に医科大学の教員研究室や実験室、図書館を配置するなど、大学と病院が一体化した造りとなっている。 病院地下の機械室の設計には、電気や機械に詳しい明德が関わり、最新技術の情報を分析してアイデアを出し、エネルギー効率のよい冷房システムや蓄熱槽を用いた、当時としては画期的な設備を備えた。また、医療福祉大学の地下には巨大な自家発電装置を複数台設置し、大規模停電等の非常時に備えているほか、明德の発想により、夏場ピーク時の電力の効率的な運用に役立てられている。明德は、常に数十年先を見据え、既存の考えに捉われない柔軟な思考で、学園の施設設備の根幹を支え続けるシステムを構築した。先を見据えた新システムの構築column‒1明德のアイデアが生かされた自家発電装置

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