川崎学園 創立50周年記念誌
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24 学校法人川崎学園および医療を中心とした福祉施設として川﨑祐宣の念願を具現化した社会福祉法人旭川荘は、ともに1950(昭和25)年設立の財団法人川崎病院を母体として設けられた。この両法人発展の過程で、医学・医療と社会福祉が緊密に連携し、医療と福祉を総合したサービスの提供が必要になるとの認識から、学園内に「医療福祉」の概念が徐々に醸成され、医療と福祉の両分野にわたる総合的教育・研究を目指す川崎医療福祉大学の設立構想へとつながった。 その後、江草安彦氏と旭川荘関係者の協力を得て、大学に係わる具体的構想と内容について検討が進められた。当時、文部省(現 文部科学省)から新しい医療職種、医療福祉職種、医療技術職種などのテーマでのパネルディスカッション協力依頼があり、その案づくりも方針決定の一助となった。 1987(昭和62)年1月、理事会・評議員会において「川崎医療福祉大学」創設が決議された。 1988(昭和63)年、明德は川崎学園の第二代理事長に就任し、父祐宣の遠大な学園構想の最大の理解者、後継者として、また、総合学園の総帥としての道を歩み始めた。 リーダーとして、「常によりよいものを求め、常に高みをめざす」という明德の人生哲学、経営哲学は、「よりよく生きる」というコンセプトにつながり、教育、医療、福祉の分野で着々と具現化されてきた。川崎医療福祉大学設立は、その代表的な取り組みであり、理事長としての初めての仕事となった。 その年の新入職員辞令交付式で明德は、「これからの高齢化社会に必要なメディカル・ソーシャル・ケースワーカーを養成する学科と、医学と情報学をミックスした医療情報学という新しい学科を中心に、今まで4年制の養成機関にはなかった感覚矯正学科を加えた大学をつくりたい」と、医療の現場で活躍する高度な専門職業人育成への抱負を語った。 なお、訓示では、「将来は、医科大学、医療福祉大学、医療短期大学、附属病院、リハビリテーション学院が一体となった、メディカル・ティーチング・コンプレックスを松島に仕上げていきたい」とも述べている。 同年、「新大学の設置の趣旨と構想」が作成され、文部省や関係官庁等との折衝を経て、1990(平成2)年設置認可、 当時、医療と福祉は学問体系上関連がないとされ、両者を融合させた医療福祉という新しい概念はなかなか理解されず、医療福祉大学設立の認可申請の際、文部省(現 文部科学省)では、初めてのケースとして、医療と福祉を別々の関係部署で審査するという苦肉の策がとられた。この結果、日本で初めて医療福祉という名前を付けた大学が認可された。現在では、医療福祉を標榜する大学は全国に見られる。前例のない「医療福祉」の概念column‒2第二代理事長に就任 ―世界初、川崎医療福祉大学設立―医療福祉大学新築工事着工地鎮祭(1990年1月)川崎医療福祉大学開学式(1991年4月)

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