川崎学園 創立50周年記念誌
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 旭川荘の構想は、学園創設者川﨑祐宣が医師として日々患者と接する中から生まれた。多くの患者と接する中で、障がい者や高齢者に適切な医療的ケアや教育が行われていない現状に気付いた祐宣は、「私がなんとかしなければ」との思いを抱くようになった。そして協力者とともに1956(昭和31)年、医療と福祉を組み合わせた「医療福祉」を事業とした旭川荘を、全国に先駆けて創設した。設立の趣意書には、「使命感に生きる同志がここに相謀り多方面の社会的協力を得て、新しい社会福祉事業を実現せんと開拓者的計画を夢見ている。この意味において私共は開拓者であり、精神的であり、能率的であり、従って模範的であり得る確信を持っている」と、祐宣の理想が示された。また、祐宣は旭川荘の理念を語る言葉として「敬天愛人」を掲げている。旭川荘の創立私がなんとかしなければ前史 1938-1969川崎学園50年のあゆみ創設者川﨑祐宣が提唱した建学の理念の実現を目指し、自然環境、教育環境、人間環境を次々に充実。ぶれることなく想いを継承しながら、メディカルスペシャリストの育成と、医療福祉の充実および発展に貢献してきた。1938(昭和13)年2月外科昭和医院開院(岡山市富田町13)1939(昭和14)年2月外科川﨑病院開院(35床)(岡山市西中山下15)1945(昭和20)年6月岡山市空襲 病院全焼(6月29日早暁)1946(昭和21)年9月病院再建(150床)(岡山市西中山下89)1950(昭和25)年8月財団法人川崎病院設立(院長は、私財土地400坪、建物300坪、その他病院設備を寄附して財団法人川崎病院を設立)1956(昭和31)年6月財団法人旭川荘設立(1959年4月 社会福祉法人となる)1960(昭和35)年3月総合病院川崎病院開院(470床)川崎癌研究所開設1966(昭和41)年3月病院東館・北館新築 (800床)岡山がんセンター、岡山救急災害センター併設1968(昭和43)年8月財団法人「学校法人川崎学園」設立準備期成会設置認可被災から数年後の西中山下付近(⇩印が外科川﨑病院)岡山空襲被災直後の西中山下付近1946年再建された病院1966年総合病院川崎病院全景開設当時の旭川荘1954.7.14 山陽新聞(旭川荘建設計画の発表)34

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