創設者 川﨑祐宣FOUNDER KAWASAKI SUKENOBU

創設者 川崎祐宣 Kawasaki Sukenobu

医の道ひとすじに

医学医療は患者さまのためにあり、
医学医療のために患者さまがあるのではない。

医師は患者さまのためにあり、
医師のために患者さまがあるのではない。

病院は医師が患者さまにサービスする場所であり、
主人公は患者さまである。

創設者 川﨑祐宣すけのぶ

1.生誕の地 鹿児島での出会い

ひとすじに生きた
私には、この90年の歳月の中で、人生を変えるような三つの大きな出会いがありました。
同期生赤塚尚友氏との出会い
彼は勉強を見てくれ励ましてくれました。もし彼の援助が無かったら、今の私は存在しなかったかも知れないと思うのです。
伯父永田安愛氏との出会い
伯父から医学の話を聞かされたり、夜中でも急病人と聞けば馬や自転車で駆けつける姿を見たりして、とうとう医師を志すに至ったのであります。
0才
1904年
明治37年
2月22日 鹿児島県姶良あいら郡 横川村中ノ991番地
(現在の霧島市横川町)に生まれる
17才
1921年
大正10年
加治木中学卒業
21才
1925年
大正14年
第七高等学校造士館卒業

2.鹿児島から岡山医科大学へ

人生を決めた恩師との出会い
「自分の教室で二年ほど一生懸命に勉強しなさい。二年後には自分で、自分の外科を開拓して一人前の立派な外科医になれる基礎を仕込んであげる。」津田誠次先生 談
私の一生を左右した人
恩師津田誠次先生との出会い
先生は鹿児島市の出身でもあり、卒業と同時に先生宅を訪ね、将来の身の振り方について教示を仰ぎました。
その結果として、岡山医科大学で副手・助手として外科の臨床経験を学びました。
そして、遂に郷里の鹿児島に帰ることなく、岡山の地で今日を迎えるに至ったのです。
23才
1927年
昭和2年
岡山医科大学入学
27才
1931年
昭和6年
岡山医科大学卒業
岡山医科大学 津田外科教室勤務
32才
1936年
昭和11年
岡山市立市民病院外科医長に就任

3.昭和医院から川崎病院の設立へ

医は仁術
医療に従事する者は、職業がら不幸な人々に接する機会が多く、私は、つねに人間性豊かな気持ちで、これらの気の毒な方々に接し、水準の高い診療をしてあげられるようにしたいものだと思い続け、努力もした。
昭和医院の設立
昭和13年、岡山市富田町大畑医院跡を借用し「昭和医院」を開設。朝ちょっと病院を回診して、夕方市民病院から帰宅して夜遅くまで、外来診察・手術や処置にあたった。

医業は財をなすために行うものではなく、もしそれによって金銭上の余裕ができれば、それを社会や患者に還元すべきであろう。
財団法人「川崎病院」に 託された思い

高い税金を患者に返そう。そして直接社会のためになる保健衛生事業をやる。そのためには、病院を法人組織として税金を免除してもらうほかはない。

院長は、私財土地400坪、建物300坪その他病院設備を寄付して財団法人川崎病院を設立。

34才
1938年
昭和13年
岡山市富田町に外科昭和医院開設
35才
1939年
昭和14年
岡山市西中山下15に外科川﨑病院を新設
(武藤病院を借りて開業)
41才
1945年
昭和20年
6月29日 岡山市、焼夷弾爆撃により全市戦災、病院も全焼
42才
1946年
昭和21年
岡山市西中山下89に外科川﨑病院を再建
46才
1950年
昭和25年
財団法人「川崎病院」設立

4.川崎病院、総合病院に

メイヨ―クリニックとの出会い
ミネソタ州のロチェスターにあるメイヨークリニックでの3週間、総合病院の経営の方法と、外科手術の実際を見学した。そのとき初めて、アメリカの外科手術の真髄に触れた思いがした。 この体験を帰国後の総合病院づくりの基本とし、川崎病院を小型のメイヨークリニックにつくり変えようと決心した。
ジョージ谷氏との出会い

ジョージ谷氏とゴールド氏は、ミネソタ大学医学部の同級生で親友であった。しかも親日家でもあったので、ゴールド博士を紹介してくれた。

これが機縁となって川崎医大とミネソタ大学の間に姉妹縁組ができることになるが、 思えば昭和29年のジョージ谷氏との出会いが、20数年後のすばらしい交流に発展したわけである。

50才
1954年
昭和29年
病院建設の基礎づくりにされた海外視察
  • メイヨークリニック
  • ミネソタ大学
  • イギリスのガイスホスピタル
    (医学博物館)
  • スウェーデンのジードホスピタル
    (緑に包まれた環境)
  • ドイツのデュッセルドルフ大学
    (心臓外科のメッカ)
53才
1957年
昭和32年
社会福祉法人「旭川荘」設立
56才
1960年
昭和35年
川崎病院、総合病院へ

5.旭川荘、医療を中心とした総合福祉施設づくり

天を敬い人を愛する人間尊重の社会づくり

私は、生業を医に求めて病院を開き、多くの患者を得た。従って体や心に障害を持つ不幸な子供と老人に接する機会が多く、当時の社会事情からみて、私の力で何とかしなければという止むに止まれぬ気持ちを抱くようになった。

私は、青年時代から、老後に理想的な社会事業をやろうと思っていました。私のすることは基盤だけだが、基礎さえできれば、協力者ができて、立派なものにしてくれるでしょう。今の私の病院も、従業員みんなの力で軌道に乗り、なんとかやりくりして資金を旭川荘に回すこともできる自信がついたので着手することとしました。丁度私はいま50歳。10年計画というのも、まだ10年は私が健康だと思うからです。むろん、理解ある皆さんの協力なくて、私一人でできることではありません。

50才
1954年
昭和29年
7月14日 「旭川荘」創設計画、山陽新聞に発表
欧米先進施設の視察
53才
1957年
昭和32年
社会福祉法人「旭川荘」設立
旭川療育園
旭川学園
旭川乳児院
63才
1967年
昭和42年
旭川児童院
64才
1968年
昭和43年
旭川敬老園
67才
1971年
昭和46年
旭川荘厚生専門学院
以降、施設の充実、再編成、専門化を進め、地域障害者のための通園、通所施設や訪問指導の制度を開き、同時に入所者(児)の社会復帰を促す授産施設を拡充し、また、専門職員の研修施設や医療福祉の研究所も設け、国際的にもアジアを中心に医療福祉の啓発指導に貢献した。現在は30に余る施設を有し、日本屈指の総合医療福祉施設として発展した。

6.学校法人「川崎学園」の設立

松島の地に医学の塔を
教育は、最も金を要する贅沢な仕事である。しかし、新しい世代の担い手を養成するために、軽視することのできない大切な仕事でもある。 私共は医人をつくるという仕事を、その子弟を育まれた父兄より任されているのであるから、これほど人生に有意義な働き甲斐のあることは他にあるまい。私は、建学の理念を胸にし、川崎医科大学の教育を今後ますます改善する努力を続けたいと思う。
おそらく、一個の医科大学を建設し、そこから毎年100名の心身共に健全で、有能な医師となるべき卒業生を送り出せば、それは巨大な病院を10~20個開設するよりも、はるかに有益な仕事であろう。
建学の理念と教育の基本方針

人間をつくる
よき医師であるためには、常識を備え、良心的で温かみがあり、信頼される人でなければならない。
そのためには、徳育が第一に重視されるべきである。

体をつくる
自分自身が柔弱では、患者に充分な奉仕をするゆとりがない。

医学をきわめる
口先と身振りがどのように親切であっても、日進月歩の医学的知識と技術の持ち主でなければ、患者や社会に感謝される医師ではない。

64才
1968年
昭和43年
8月13日 財団法人「学校法人川崎学園」
設立準備期成会設置
64才
1968年
昭和43年
12月 都窪郡庄村松島に土地購入
66才
1970年
昭和45年
3月 「学校法人川崎学園」設立
66才
1970年
昭和45年
4月 「川崎医科大学」開学
「川崎医科大学附属高等学校」開校
67才
1971年
昭和46年
「川崎病院」の名称を「川崎医科大学附属川崎病院」と改称

7.学校法人「川崎学園」の発展

医療と福祉の融合を目指して
祐宣は青年のころより、医学と医療の観点から福祉の問題を考え「総合医療福祉施設」の発展を志向した。「医療と福祉のサービスは総合的かつ統合的に提供されるべきである」という「祐宣の目指した医療福祉の概念」が広く理解されるのに40年の月日がかかった。
平成3年4月11日、「医療福祉」の理想を掲げて、その第一歩を踏み出した。医療福祉に立つ教育機関としては、わが国では全く新しい試みとしての大学である。
創設者川﨑祐宣が、多年温めてきた医療福祉の集大成といってよい大学が誕生した。
本学の特徴は、真の豊かさを実感できる福祉社会の実現を目指して、教師と学生が一体となって学び合い研究しようというものである。それだけに先駆的であり実験的であり開拓的なもので、国民が等しく求めているものだといえるであろう。
第二の特徴は、全ての学科が実用の学であるということ。そして第三の特徴は医療福祉・ヘルスサイエンスの総合大学であり、ユニヴァシティであること。総合大学は学問が多面的・重層的であり相互に刺戟と協力し、より向上を目指して創造する可能性をもつものである。
69才
1973年
昭和48年
「川崎医科大学附属病院」開院
「川崎医療短期大学」開学
70才
1974年
昭和49年
「川崎リハビリテーション学院」開学
73才
1977年
昭和52年
川崎医科大学・アメリカミネソタ大学医学部友好関係締結
87才
1991年
平成3年
「川崎医療福祉大学」開学

8.日中友好の架け橋に

日本は、2000年の長きにわたり、中国から計り知れない文化的恩恵を受けている。それにもかかわらず恩を仇で返した中国侵略の罪は日本人がそれぞれ分相応の立場でその償いをすべきである。川崎学園は、医学を通じて中国に温かい手をさしのべ、日中友好の親善を深め、また、日本人として過去の償いの一端を果たしたい。
表彰
昭和46年 山陽新聞賞(教育功労)
昭和47年 三木記念賞
昭和55年 岡山県文化賞
昭和58年 倉敷市文化章
昭和59年 中華医学会名誉会員の称号
昭和60年 岡山県名誉県民の称号
昭和61年 倉敷市名誉市民の称号
昭和62年 首都医科大学名誉教授の称号
昭和63年 上海中医薬大学名誉教授の称号
52才
1956年
昭和31年
岡山県訪中文化使節団の副団長として北京訪問
74才
1978年
昭和53年
中国医学界との交流始まる
78才
1982年
昭和57年
北京第二医学院(現 首都医科大学)と友好関係締結
80才
1984年
昭和59年
上海中医学院(現 上海中医薬大学)と友好関係締結
83才
1987年
昭和62年
上海職工医学院(現 上海健康医学院)と友好関係締結